宇佐美 さやか

うさみ 清香
日本共産党横浜市会議員
うさみ日記

貴重なお話に、鳥肌が・・・

2017年5月21日

DSC_5190 5月25日号のタウンニュースの原稿を書く。テーマは「横浜大空襲」について。

 昨日の偲ぶ会でに参加いてらした方が、たまたま横浜大空襲の時のお話をされたので「直接お話を聞きたい」と言うと「あの頃の話は、一晩じゃ語りつくせないけど、どうぞ、家にいらして」と言ってくださったので、今日、早速お邪魔すると、テーブルには、数年前に亡くなられた夫さんの遺影がちょこんとおられた。

 その方は、現在89歳。1945年、17歳の時に横浜大空襲に遭ったという。

 今は亡き夫さんは、14歳で体格も成績も良かったことから徴兵され、横須賀の基地に送られたそうです。当時、妹さんに宛てたハガキを大事に残していると、見せてくださいました。ラッパを鳴らす水兵さんの絵が描かれていました。「絵葉書がないから、自分で描いた」という文言が書かれています。

 当時のことを30年後に調べて本にした方がおられ、その本をお借りしました。

DSC_5191 反町のことを書いてある箇所を少し読んだだけでも、鳥肌が(>_<)

 17歳で、空襲に遭った方は、当時戸塚に住んでいて、質の悪い中耳炎になり、今なら直ぐに治るのに、当時は薬もなく、手術をした先生までも徴兵され、完治しないままにいたそうな、別の病院で女医さんに診てもらい、仕事場のある藤沢へ行く途中の市電に乗って青木橋を通る頃、空襲警報が鳴り、10分もしないうちにアメリカ軍のB29が飛んできて、機銃掃射を受けたそうです。気付くと、市電に乗っていた人は壕に逃げて、一人で立ち尽くしていると「早く逃げろ!!」と怒鳴り声を聞いて我に返り「東口に逃げようか、西口に逃げようか」と悩み、西口に向かって無我夢中で走って逃げたそうです。

 まだ、本当なら学生で、勉強していたはずなのに、卒業したことにされ、仕事に着いたばかりでしたが、仕事場から「何かあったら、着けなさい」と、渡されていた腕章をつけ、横浜駅のホームへ走り込み、着た電車に乗り込むと周りは、同じ腕章を着けた人ばかりだったと。

 藤沢まで来たら、攻撃されないという判断が幸いし、逃げ切ることができたそうですが、仕事場に行っても仕事どころではなく。みんなで外に立ち尽くし「あれは、近いね、横浜が燃えてるね」と話をしていたそうです。

 知り合いの女性は、横浜駅から、今の崎陽軒の辺りまで在った地下通路に逃げ込み、空襲が終わり外に出されたものの、あまりの景色の変わり様に驚いたと、話されたそうです。鶴見まで歩いて帰り、気付くと足の裏が酷く痛むので見てみると、やけどを負っていたそうな(つд⊂)焼け野原を必死で歩いていたので、気付かなかったと、服も飛んでくる火の粉で所々焼け、顔はすすで真っ黒だったと話されたそうです。その後、この方は、疎開したのに、疎開先でも空襲に遭い、それも生き延びたのに、うつ病になり、その後会うことは無かったとか・・・。「爆撃で、首や腕が飛んでくるでしょう、そんなの見ていたら、頭おかしくなってしまうのよ・・・」と、想像してしまい、恐ろしさに震えてしまう。

 20歳だった女性は、線路のポイント切り替えの仕事をしていて、右足が爆風で飛ばされたと「その後会うことはなかった」と(;_;)男性が徴兵され、力仕事も女性の仕事になっていたんですね・・・。

 72年前の空襲の被害は、横浜駅、東神奈川駅、反町駅、黄金町辺りが、特に酷かったそうです。「建物なんて、何も残ってなかったの。今のビルだらけの町になるなんて、想像もできないくらい。でも、今でも青木橋に行くと、思い出すんですよ、当時の事を」と、89歳とは思えないくらいにはっきりとした口調でお話してくださいました。

 私の祖父や祖母たちから、戦時中の話を聞くことが出来ず悔やんでいましたが、今回お話を聞かせていただき、この事実を今度は、私が次の世代に話していこうと、思いました。

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